血眼になるは「目を血走らせている様子のこと」。

たいていは何かを行うときに夢中になりすぎて、冷静さを失っているような状況を指していると言えます。

躍起になるは「何かに対してムキになっていること、非常に強いこだわりを見せていること」。

冷静さを失っているという意味では、血眼になると同じような意味ですが、冷静さを失っている程度は相対的に弱いと評価できるでしょう。

「血眼になる」の意味

血眼になるとは、目を血走らせている様子のことです。

何かに夢中になっている状況で使う言葉であり、その分冷静さを失っている状況と評価できるでしょう。

血眼になるという状況は本人が自覚しない間に起きている可能性が高く、無意識のうちに発生しやすいと言えます。

でも、多くの人たちがそれに近い状況を1度は経験していると言えるでしょう。

「躍起になる」の意味

躍起になるとは、何かに対してムキになっていること、非常に強いこだわりを見せていることです。

血眼になる状況とかなり近いのではないかと思われる状況です。

言い方を変えただけで、ほぼ同じ状況でしょう。

躍起になるの方がまだソフトな表現に聞こえるため、こちらの方が日常的には使われる可能性が高いと言えるので、見聞きしやすいはずです。

「血眼になる」と「躍起になる」の用法や用例

「私はゲームをやり始めると、それだけに集中してしまい、他人の話などが耳に入ってきづらい状況を迎えるんだ。

血眼になってやってしまう癖があるから、そこをなんとかしたいと思っているんだよね。」

「私は学生時代から野球部に所属していて、野球にはかなり詳しい。

だから、野球の話になると躍起になってしまい、他人の会話にも平気で入ってしまうことがあるんだ。」

血眼になると躍起になるはほぼ同じ意味

血眼になると躍起になるは特定の物事だけに集中してしまう、これに強いこだわりを見せてしまうという意味で、他の部分が頭に入ってこないような状況を指しています。

だから、両者はほぼ意味は変わらない状況と言えると思われますが、どちらかと言えば躍起になるという言い方の方が使われやすいのではないかと評価できるのです。

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