信心は「神仏を信じること。」
「信仰」と言い換えると分かりやすい。
崇めるは「自分には及びも付かない存在を奉ること」。
「信奉」と言い換えると分かりやすい。
信心は信仰より砕けた言い方になり「鰯の頭も信心から」「信心深い人」などと使い、崇めるは神仏や自分より優れている存在・目上の人などをうやうやしく奉ることです。
「信心」は信仰の第一歩
「信心」は「信じる心」ですから、宗教に入る第一歩と言う心構えです。
信じることは宗教にとり最も基本的なことですが、神仏を信じなければ何事も上の空になります。
神仏を信心すれば何を言っているのか理解する気になるのです。
信じれば宗教は人の道・道徳・生きる指針・死ぬこととは、などを分かりやすく説いてくれるのです。
「崇める」は神仏の信仰
「崇める」は崇拝することですが、神仏を信仰することは勿論ですが、神仏に限ったことでもありません。
崇める対象は生きて居る人でも良いのです。
自分が尊敬出来る人物であれば崇め奉ることをします。
例えば新興宗教の教祖を崇めることは、人それぞれのことですから良し悪しはとやかく言えません。
しかし、彼らは人間であり神仏ではないことは確かです。
「信心」深い人が「崇める」のは神仏
「信心」深くなると神仏を崇めることをします。
それが生きた人であろうと仏像であろうとご神体であろうと構いません。
人は生きるよりどころを求めるものなのです。
また、死後の世界も知りたいと思うものです。
世界の宗教はそれらについて答えを用意しています。
無信仰の人は信心や崇めることはしませんが、自分を信じているのかも知れません。
「信心」は信じること、「崇める」は奉ること
「信心」はとにかく神仏を信じることを始めることです。
何か良くないことが身に起きると「信心が足りないためだ」と言われてしまいます。
「鰯の頭も信心から」と言うことわざがありますが、「一度信じてしまうとつまらないことも信じるようになる」と言うことです。
信じることを少し揶揄していることわざに感じます。
「崇める」は「うやうやしく奉る」ことです。