「見る」は、自然に目見入って来たものを認識している状態です。

「視る」は、意図して対象物を「みる」動作を言います。

「見る」にも「視る」にも「目」の部首が含まれています。

これは、「目の大きい」という意味を表しています。

「見る」「視る」には目に入ったものを理解する、認識するという意味が含まれています。

古代には、「目の大きい」ことが、そういった能力には必要不可欠と考えられていたのかもしれません。

「千里眼」は「ESP」を表していますが、これもまた「目が大きい」ことがそういった特殊能力につながると考えられていた証拠でしょう。

「見る」の意味

「見る」は、目で見ること。

この言葉は、「思うこと」や「会う」という意味を含みます。

例として、「見解」や「謁見」が挙げられます。

「見る」の文字は、「目」と「儿」の部分で構成されています。

「儿」は、人の象形文字です。

「目」は、「大きな目」を意味しています。

つまり、「見る」は「大きな目の人」という意味です。

古代、「大きな目の人」が、明らかに物を見ることができると考えられていたことを表しています。

「視る」の意味

「視る」は、「特に注意して見る」という意味です。

「監視」は「特定の部分や場所を正常かどうか見張る」という意味です。

「環視」は、「取り巻いて視ている」という意味です。

このような字義から、「視る」には、「司る」という意味や「養う」という意味が含まれると考えられます。

「視る」は、「見」と「示」の部分から成っています。

「示」の部分は、「指で指し示す」という意味です。

一点に集中して「見る」という動作をするということを表しています。

さらに、「教える」という意味も含みます。

十八史略に、「先生視可者・先生は如何なる者か示す→先生が適任を示す」という例があります。

「示す」ことが「教えること」になるという意味です。

字義としては、この使用方法がもともとで、それにより注視するという意味が派生し、「みる」という使用方法に移行したのでしょう。

「見る」と「視る」を英語で比較すると

「見る」は、look,seeに近い感覚であるされます。

seeは、「物事が見える」という意味で、日常的に「会う」という意味を含みます。

他動詞なので、その動作が影響を及ぼす物体がこの動詞の直後に置かれます。

自動詞のlookの場合、前置詞のatを用いて動作の方向を示します。

Look atは、それを見ようとそちらへ目を向けることを意味しています。

「首を回して見る」といった行動を起こす必要があるので、ある程度の努力がその意味に含まれます。

「視る」は、watch・seeの「注視する」という意味、もしくは、stare「じろじろ見る」という意味の感覚に近いと考えられます。

Seeは「見る」という意味の場合と、「視る」という意味の場合があります。

「視る」に使われる場合は、動かない物を注視する場合に使われます。

Watchは、動くものを注視する場合に使われます。

TVは動いている対象であると考えられ、
「Watch TV」と使用されるのです。

他の言語で、日本語の言葉を比較すると、その言葉の意味がより明らかになる場合が多いのです。

視る・見る・観る・診る・看る・覧る

「みる」という表現には、いろいろな場合があることに改めて驚かされます。

「観る」は、細かく広く原因を「みる」ことです。

「ながめ」という意味もあります。

例は、「外観」などです。

この文字の部首は、「コウノトリの目の周りの赤い部分」を示しています。

鳥が物を「みる」ようによく観ることを表します。

医者が使うのは「診る」です。

例は、「患者を診る」「聴診器で胸を診る」です。

看護師の場合は「看る」です。

これは「人の世話をする」という意味です。

故に、看護師が使うのは「患者を看る」です。

同じ「患者をみる」でも、その職業によって意味が変化します。

「覧る」は、「よく見る」「ながめ」という意味です。

「ひととおとり目を通す」という意味を含みます。

「みる」という大和言葉がまずあって、その使用する場合や意味に適した漢字が選択され、いろいろな「みる」が成立したのでしょう。

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