水掛け論は「お互いに説を曲げないで譲歩しない様子のこと」。

「対立」と言い換えると分かりやすい。

押し問答は「お互いに説を言い合い拉致のあかない様子のこと」。

「反目」と言い換えると分かりやすい。

水掛け論も押し問答も同じことですが、お互い譲歩する気持ちがないことは同じなのです。

不毛の論議とも言えますが、正論である一方が無駄と判断すれば相手にしません。

「水掛け論」は平行線

「水掛け論」は例えば「Aだから Bだ」と言う説と「Aは間違えだからBも違う」と言う説の対立です。

どこまでも平行線で、Aの正誤の判断を第三者にしてもらわないと埒があきません。

ある事柄についてそれは正しいか間違いかと言う説で対立している場合、それぞれ根拠らしいものを提示するのですが、お互いに認めようとはしません。

第三者の判断を尊重してくれればよいのですが、それすらも認めないと永遠の不毛の言い争いになります。

間違えている方の自覚を待たなければなりません。

「押し問答」も平行線

「押し問答」はお互いの自説を主張し合い、相手の説を否定することです。

「水掛け論」と同様平行線の論議と言えます。

どちらかが妥協する姿勢を見せないと永遠の不毛の論議となってしまいます。

世の中には立場や考え・イデオロギーの違いなどで、同じもの事でも真逆の判断をしてしまい、自説が正しいと言い張ります。

特にイデオロギーの対立では永遠の平行線になります。

「水掛け論」も「押し問答」も不毛

「水掛け論」も「押し問答」も決定的な対立関係で起きると妥協点はありません。

まさに不毛の論議の繰り返しとなります。

例えば人権問題も人権侵害と言う一方、国内問題とかわす議論は不毛のことなのです。

領土問題も相手の根拠を認めようとはしません。

歴史認識も捏造してはばからないのでは平行線です。

国家間では解決は困難を極めますが、個人間では仲裁が功を奏せば和解は可能です。

「水掛け論」と「押し問答」とは

「水掛け論」は自説を主張し合い、平行線になる様子のことです。

「押し問答」も同じく自説の主張の繰り返しで埒が明かないことです。

個人間では解決の方法もありますが、国家間の争いはイデオロギー対立や歴史認識の捏造などで解決は困難になり、国際司法裁判所の様な絶対的な権力を持つ国際機関と言え機能せず、永遠の不毛の論議となるのです。

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