潔いは「一切の言い訳をしないこと。」

「殊勝」と言い換えると分かりやすい。

諦めは「おかれた立場を悟ること」。

「悟り」と言い換えると分かりやすい。

「潔い」は言い訳をしないで、現状を受け入れることです。

「諦め」は現状を考えこれ以上のことは無理と悟り、受け入れることです。

どちらも現状を受け入れることになります。

「潔い」は早く現状を受け入れること

「潔い」は現状置かれている自分の立場を言い訳はせずに受け入れることです。

不利な立場であっても、弁解は言い訳と取られるために、一旦は受け入れることをします。

傍から見れば「潔い行為」と見えます。

「早々に罪を認めることは潔い行いだ」「潔く死を選べ」「死んで潔白を証明することは果たして潔い行いなのか」などと使います。

「諦め」はそれ以上の努力をしないこと

「諦め」はそれ以上の努力をしないと決めることで、現状を甘んじて受け入れることになります。

「いろいろと手を尽くしたが、これ以上はもう無理と諦めた」「人間諦めが肝心だ」「仏教には諦観という考えがある」「もう諦めたのか、意気地なし」「男女の仲も未練は禁物、早く諦めて次を探したほうが良い」「なかなか諦めがつかない」などと使います。

「潔い」ことは「諦める」ことに似ている。

「潔い」行為は結果として「諦める」行為となっています。

「潔く」ことを決着させることは、「諦める」ことに似ています。

決して「諦める」訳ではなくとも、結果として「諦める」こと、現実を受け入れることになるのです。

「潔い」は無駄な弁解をしないこと、「諦める」は無駄な努力をしないことです。

「潔く諦める」ということもあります。

「潔い」と「諦める」とは

「潔い」は無駄な弁解をしないで現状を受け入れることです。

「諦める」は無駄な努力をこれ以上しないで、甘んじて現状を受け入れることです。

どちらも結果として現状を受け入れています。

例えば「潔く死を選んだ昔の侍」「もう、お迎えが来たのかと諦める人」と死という「現実を受け入れこと」を行っています。

「潔い」と「諦め」はその意味で似た言葉になります。

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