字余りは「俳句や短歌で五七五または五七五七七の字数に収まらないこと」。

「五七六」と言い換えると分かりやすい。

字足らずは「俳句や短歌で五七五または五七五七七に字数に足りないこと」。

「五六五」と言い換えると分かりやすい。

「字余り」や「字足らず」の俳句や短歌は自由な雰囲気が出て、斬新な感じもするものですが、かなり難しく上級者向けの技術です。

近代的な俳句や短歌には多く取り入れられています。

「字余り」は定型詩の字数を超過してしまうこと

例えば俳句で「上五句」が「上六句」となるようなことです。

「下五句」が「下六句」となることもあります。

「中七句」が「中八句」となることは稀で避けることが望ましいとされます。

小林一茶の句に「雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る」があり「中八句」となっています。

短歌でも起こり得ることで、実際詠まれた句が何首も残されています。

「字足らず」は定型詩の字数が足りないこと

「字足らず」は上句や中句、下句で字数が足りない句のことを言います。

このように「字余り」や「字足らず」の俳句を自由律と呼んでいます。

代表的俳人に種田山頭火がいます。

彼の句に「分け入っても分け入っても青い山」があり上六句と中六句と変則的です。

他にも河東碧梧桐や秋元不死夫などが有名です。

綺語がない句もあるぐらい自由なのです。

「自由律」とは「字足らず・字余り」だけではない

「自由律」とは自由な表現を重んじる俳句のことです。

伝統的な切れ字である「かな、けり、や」は使わずに、字数も自由で季題にも縛られません。

短い句では「まっすぐな道でさみしい(種田山頭火)」、「棹さして月のただ中(萩原井泉水)」、「草も月夜(青木此君楼)」などがあり、長い句では「こういう思想をもって黄ばんだ街路樹を仰いでいる(栗林一石路)」、「曳かれる牛が辻でずっと見廻した秋空だ(河東碧梧桐)」などがあります。

「字余り」と「字足らず」とは

俳句や短歌など定型詩で規定の字数が超過することや足りないことを「字余り・字足らず」と言います。

上句、中句、下句のいずれかで過不足がある句のことで、リズム感や斬新さを出す工夫がなされています。

自由律では、その他に季語、季題ないもの、極端に短いもの、長いもの、句またぎのものなどがあります。

河東碧梧桐、種田山頭火、荻原井泉水、青木此君楼、栗林一石路など多くの俳人がいました。

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