公家とは、日本における貴族のことであり、源氏や平氏などの「武家」に対して用いられる語です。

公家は、天皇や朝廷に仕える貴族や上級官人の総称として使われます。

また、文化の担い手としても存在感を示していました。

公家のなかでも国政を運営する「太政官」の最高幹部である太政大臣・左大臣・右大臣などの官職に就いている貴族や三位以上の位階を持つ貴族のことを、特に「公卿」とよび区別しています。

公家とは

公家とは、天皇や朝廷に仕える貴族のことです。

官人として宮廷に出仕して務めを果たすほか、文化的素養をつけて代々家業を行うのが主な役割でした。

源氏や平氏のように、武力で朝廷に仕える貴族を「武家」と呼ぶようになり、それに対比する形で「公家」の語が誕生しました。

宮廷に出仕する官人のなかでも、公家は高い位階を持つことがほとんどです。

公卿とは

公卿とは、貴族社会における最上位の人物を指します。

中国では「三公九卿」というのがあります。

太政大臣・左大臣・右大臣を「公」、三位以上の貴族を「卿」とよび、これらを総称して「公卿」とよびます。

国政を担う太政官の最高幹部として昇り詰める高官であり、公家のなかでも特別な存在とされています。

9世紀以降の摂関政治で大きな存在感を出しますが、武家政権の登場にともない、公卿も世襲的な形になっていくことが多く、公卿になることのできる公家はごくわずかでした。

武家政権でも公卿は登場

公卿は、「太政大臣・左大臣・右大臣などに就任」し、「三位以上に叙位」された者を指します。

基本的に公家社会では「官位相当制」とよばれる、位階と、就くことのできる官職はリンクしているシステムだったので、官職と叙位の大きな乖離はありませんが、武家のなかでも公卿になる人物は幾人か登場しています。

平清盛の太政大臣就任を皮切りに源頼朝や足利将軍家、織田信長も右大臣に就任したことで公卿の仲間入りを果たしています。

徳川将軍家は、朝廷統制や幕府優位の形をとることから、公家の官位と武家の官位を分けてしまったことから、このころには新たな公卿がほとんど見られなくなりました。

公家の中の特別な存在が「公卿」

公家社会において、太政官の最高職を務める太政大臣や左大臣・右大臣は、本当に限られた家柄の人物しか就任することができませんでした。

これは時代が下るほど世襲が行われた形で家柄が固定化されたためです。

さらに江戸時代は、情勢の安定した時代が長く続き、公家も出世より家業にいそしむという者が見られるようになりました。

公家の中でも三位以上に昇進するということは、公家の中でも特別な存在とされていました。

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