「走馬看花」と「道聴塗説」の違い・意味と使い方・由来や例文

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走馬看花は「上辺だけを理解して、本質的な部分は全く理解していない状況のこと」。

つまり、表面的な部分だけを知って満足している状況と評価できる言葉です。

道聴塗説は「道端で聞いたことを誰かにすぐに話すこと」。

つまり、なんとなく理解した感じになっている話を誰かに伝えようとすることで、本質的な部分は理解していないのにという意味合いが含まれています。

「走馬看花」の意味

走馬看花とは、上辺だけを理解して、本質的な部分は全く理解していない状況のことです。

本質的な部分への理解が足りないシーンで使っていきますけど、本人はちゃんと理解した気になっているが、実は上辺だけしか理解していないという勘違いを指摘する意味でも使うことができます。

つまり、非常に愚かに見えるような場面にて使っていく言葉なのです。

「道聴塗説」の意味

道聴塗説とは、道端で聞いたことを誰かにすぐに話すことです。

道端で聞いただけの、内容も大してない話を誰かに話すということで、本質的な部分を理解できる状況ではないのに、それを他人に話してしまう滑稽さを揶揄するような言葉と言えます。

これも本人はそのような事実に気付いていないわけで、走馬看花と同じような意味と言えるはずです。

「走馬看花」と「道聴塗説」の用法や用例

「自分としては完全に理解しているつもりでも、実は大して理解していないことはよくある。

そういった走馬看花の状態になっているときには、すぐに気が付かないといけない。」

「少し聞いただけの話では、本来は本質的な理解はできないが、そのように理解した気になって他人に話したがる人は実際に存在する。

それを道聴塗説と言ったりするんだ。」

走馬看花と道聴塗説はどちらも理解力が足りない状況

走馬看花と道聴塗説に関しては、ともに理解力に問題があると言えるような状況で使っていきます。

これらの言葉はともに上辺だけしか理解していない状態、本質的な部分までは分かっていない状態において使っていく言葉です。

そのため、両者に関しては意味は大して変わらない、同じような意味の言葉であるという言い方ができるのです。

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