「倭」は、中国や朝鮮半島の歴史書などに記された日本の呼び名です。
後漢書地理史には、『楽浪海中に倭人あり』と記されています。
本来、「倭」とは、「小さい・遠い」という意味です。
中国の王朝は、周辺国に悪い意味の字を当てて呼ぶ慣習があったので、この字を用いて日本の呼称としたと考えられます。
元明天皇の時、都のあった「山門・やまと」地域を、「倭」に通じる「和」の文字に「大」の文字をつけて「大和・やまと」と呼ばせるようになりました。
7世紀からは、朝廷は「日本・にっぽん」の呼称を使うようになりました。
一説によると、8世紀、則天武后によって「日本」の呼称が認められ、中国でも日本と呼ぶようになったといいます。
「倭」は、遠い・小さいという意味です
倭には、「従うさま」や「うねって遠いさま」という意味があります。
倭の人偏「イ」は人を表し、「委」の部分は「なよやかな女性」を表しています。
儒教思想では、女性は「従うこと」の象徴だったのでしょう。
これから、「従う」「うねうねした」という意味が導き出されました。
中国王朝が周辺国に、国の性格として押し付けるには最適な名前だったと言えるでしょう。
和は、「仲が良いこと」「助け合うこと」「戦いをやめること」という意味があります
和は、「和らぐ」「なごむ」「穏やかになる」という意味も含まれます。
この漢字は、口と「禾」で成り立っています。
「禾」は、「会う」という意味があり、「和」は、口から発した音、つまり、声と声が合う状態を表しています。
これは、「ハーモニー」を表しています。
古代には、「ハーモニー」を感じると「なごむ」雰囲気が醸成されたのでしょう。
「和」は、歌によって世界平和を目指した漢字といえるでしょう。
この文字を、「倭」に代えて大和朝廷が使用したのは、平和を尊重した元明天皇の意志だったのでしょうか。
「倭」と「和」の国名の意図するところ
倭には、「遠い」という意味があります。
古代、中国の都・長安や洛陽から役人が日本にやってきました。
魏志倭人伝に記されてることから、当時、中国の役人は九州北部には到達していただろうと云われます。
聖徳太子と会ったとされる裴世清は、まさしく大和を訪れ本国に報告しています。
彼らは、数か月をかけて、または、海の状態では数年を経て来日しているので、「本当に遠い」と感じたことでしょう。
そして、「なんてへき地だ。」
と思ったことでしょう。
彼らは、「和」というより「倭」がふさわしいと考えたのではないでしょうか。
古代、大和朝廷は、呼称を変えてくれるように何度も中国王朝に働きかけたらしいのですが、全く認められませんでした。
その要求を認めたのは、則天武后だったといいます。
どういった意図で日本の呼称を変えることになったのか、はっきりとしたことは伝わっていません。
何があったか興味深いことです。
「倭」と「和」
中国王朝が周辺国に悪字を以て呼称としたのは、自国が「中華」、つまり、世界の中心であるという思想によるのでしょう。
しかし、この考え方があったからこそ、日本人が、国名を新たに文字を選択したくなり、その最初が「和」だったことは、古代日本人のセンスの良さが偲ばれます。
そして、このことは平和へのあこがれの強さを物語っていると思います。
令和も平和な時代であってほしいと切に望みます。