「性善説」と「性悪説」の違い・意味と使い方・使い分け

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性善説は「人は元々善人として生まれるが、成長とともに善を忘れ、悪にそまるがまた、善人に戻れること」。

「道徳的本性」と言い換えると分かりやすい。

性悪説は「人は元々悪人として生まれるが教育などで成長と共に善人になること」。

「邪悪的本性」と言い換えると分かりやすい。

ひとは生まれはともかく成長とともに善人にも悪人にもなり得るということになります。

「性善説」では人は生まれつき善であるという説

「性善説」は儒教の中心的な考え方で、「人は生まれながらに善であるものの、成長と共に善を忘れてしまい悪に染まるので、徳のある人の教えが必要なのだ」というものです。
「人は善人なのだから悪いことはしないので信用せよ」は誤解と言えます。

例えば「日本の法律は犯罪者に寛容で性善説が根底にあるのではと思ってしまう」などと使います。

「性悪説」では人は生まれながらに悪であるという説

「性悪説」では「人は生まれながらに悪人なのだが、教育や道徳により善人になれる」という考え方です。
「人は生まれながらに悪人なので、簡単に信用してはいけない」は誤解です。

例えば「江戸時代では罪人の刑が厳しかったので、性悪説が根底にあったのかも知れない」、「性悪説を信じる人は詐欺にあわないでしょう」などと使います。

「性善説」は当時の中国の主流の考えで、「性悪説」は軽視された。

「性善説」は戦国時代の孟子により唱えられた説で、当時の中国では儒教の中心的な考え方になっていました。

反対の考え方と見做されていた「性悪説」はやはり戦国時代の荀子により唱えられましたが、長い間無視をされてきました。

しかし、清朝時代にやっと見直しがされたのです。

「性悪説」も徳を積むことで善人になれるという説なのです。

「性善説」も「性悪説」も悪がでてきます。

「性善説」の悪は成長の段階で生まれながらに持っている善を失念することで生じるのだから、徳や賢人の教えを以ってもとの善人になれるという説です。

「性悪説」では悪は生まれながらに持っているものではあるが、徳や教育により善人になれるという説です。

二つの説は相反するイメージですが、良く理解すれば、同じようなことを言っています。

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